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放浪者から天下人を目指した勝連の英雄、阿摩和利

阿摩和利は北谷屋良の生まれと言われていますが、その出生や生い立ちについての詳細は分かっていません。 ただ、十五世紀に勝連半島に現れ、民衆の心を掴んで当時の茂知附按司(もちづきあじ)に代わって按司となり「大和の鎌倉に喩えられる」ような勝連の繁栄を作り上げた英雄であることは様々な資料から伝えられています。若按司 阿摩和利はクモの巣を見て漁網を考案したり、勝連半島の地の利を活かして貿易で領地を富ませた知恵者でした。勝連地域に伝わるおもろ(古謡)には、『肝高の阿摩和利(きむたかのあまわり)』(志が高い)としてほめ]える唄が多数あります。

しかし他方、このような地方の繁栄は首里王府から見れば脅威でした。 尚泰久王は娘の百度踏揚(ももとふみあがり)を阿摩和利に降嫁させ、懐柔を計ったようです。王女を迎え、いよいよ繁栄を極めた阿摩和利でしたが、一四五八年に起きた『護佐丸・阿摩和利の乱』で一気に歴史から姿を消してしまいます。
琉球の正史によれば、琉球王になる野心を抱いた阿摩和利が、中城按司 護佐丸が謀反を企んでいると忠言し、自ら王軍を率いて護佐丸を征伐します。忠臣護佐丸はもとより刃向うつもりはなく自刃したのですが、邪魔者を打った阿摩和利は返す刀で首里を攻めようしました。しかし計画が露見し、今度は逆に首里に攻め滅ぼされたと言われています。阿摩和利は地域によって真逆の人物像が伝わる、謎の多い英雄です。

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