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琉球の宮本武蔵、松村宗棍

琉球王国時代に活躍した最も偉大な空手家の一人。真偽は不明ですが、尚氏王統の血筋を引く由緒ある家柄だったと言われています。 17歳頃からすでに武術家として頭角を現し、成人後、松村は役人として薩摩に渡り、伊集院弥七郎より示現流剣術を学び免許皆伝を得ました。 1836年に師の佐久川寛賀(かんが)に随伴して北京へ渡り、勉学のかたわら北京王宮の武術教官「違伯(イファー)」のもとで、中国武術も学んだと言われています。 帰国後は、17代琉球国王から19代尚泰王の三代にわたって御側守役という役職に就き、国王の武術指南役もつとめたと伝えられています。 晩年は、世界遺産に指定している識名園で、後進の指導育成に努めました。同園には、松村によって、柳と梅の木が植えられています。彼の空手の極意である「上体は柳の如く、下体は梅木の如し」を後世に残すためと言われています。 今日の首里手系統の空手流派のほとんどは松村の流れを汲んでいると言えるでしょう。 武芸を三段階に分けて、型偏重(学士の武芸)を戒め、臨機応変の大切さを説き、武芸の目的はおのれのためではなく、国王や両親を守る(忠孝)ためにある(武道の武芸)と説く。【松村宗棍遺訓より】

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