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琉球王国の礎を築いた王、察度

中国との間に進貢関係を樹立し、『琉球』という名称が公式に決定された時の王 察度は※中山世鑑の中で、奥間大親(おくまうふや)と羽衣伝説の天女との間に生まれたとされています。神号は、大真物(うふまもの)。 生家は貧しかったが、当時力のあった勝連按司(豪族)の娘と結婚し、30歳の時、浦添の英祖王統を滅ぼし、察度王統を興しました。 中山王となった察度は、日本の商船が積んだ鉄を買い占め、鉄の農具を作らせるなどで、次第に人心を掴んでいきました。また、明の太祖洪武帝の招諭に応じ弟の泰期を明に派遣し,朝貢貿易をはじめたのも察度でした。中国の歴史書にはじめて登場する琉球国王が察度王と伝えられています。中国との関係は後に500年余にわたって存続しました。中国の他、東南アジアや高麗、日本との貿易を展開し、中継貿易基地として発展して行きました。察度は弟の泰期と共に琉球王国、沖縄の礎を築きあげた王といえます。

※中山世鑑とは、1650年に摂政・羽地朝秀が表した琉球最初の歴史書。

〜共に琉球王国、沖縄の礎を築きあげた王であり、また『琉球』という名称が公式に決定された時の王といえます。

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