琉球藩を受け入れた 王国最後の政治家、宜湾朝保
十九世紀中葉、日本が明治維新を成し遂げた激動の時代。
若くして琉球政治の最高職・三司官に就任した宜湾朝保は維新を祝う使者として東京に派遣された。そこで新政府から琉球を日本の藩とし、国王・尚泰(しょうたい)を藩王とする詔勅が下され、使者一行は驚くが、宜湾は世界の大勢とと自国の立場を鑑みこれを受諾した。以降、琉球を日本に取り込むための施策、所謂(いわゆる)琉球処分が段階的に行われていった。
亡国の危機に瀕した琉球王府では議論が沸騰したが、宜湾はこの様子を「衆官の議、もっぱら己の門閥(もんばつ)を保つを先にする」と評し「ただ国家を安んずる」ために多難な琉球を新しい時代に導こうとした。しかし親清派の士族達からは「売国奴」と呼ばれ、激しい非難の集中砲火を受けたため病に伏し、やむなく三司官を辞した。彼が憂悶のうちに没したその三年後、強権的に琉球王国は廃され沖縄県となった。
「野にすだく 虫の声々かまびすし たが聞き分けて品定めせむ」 宜湾朝保
宜湾朝保は当代一の国際感覚を持った政治家であり、琉球最大の歌人とも称された文化人だったが、失脚後は不遇な晩年を送った。