琉球最初の歴史書を編纂し、国の在り方を示した政治家、羽地朝秀
羽地朝秀の家は王家の血を引く首里士族の名門です。しかし朝秀が生まれる数年前に琉球は薩摩の侵入を受け、以後、王国のまま江戸幕府の支配下に置かれていました。財政は疲弊し、国家としての主体的な生き方と希望を見失っていた時代に、羽地朝秀は数々の政策で財政を立て直し、生涯をかけてその後の琉球王国の道筋までをも示した経世家でした。
□『中山世鑑(ちゅうざんせいかん)』を著す 王命により、琉球王国初の正史を編纂します。この歴史書は琉球人と日本人は元々同じ祖先であるという「日琉同祖論」に基づいて書かれてるのが特徴です。
□政治の最高地位「摂政」になり『羽地仕置(はねじしおき)』を実施
五十歳の就任時から七年の間に、朝秀が実施した政策をまとめたものが『羽地仕置』です。その内容は「質素倹約」「古い伝統行事の見直し」「役人の不正の取り締まり」「風俗の乱れの規制」「士族への諸芸の奨励」「身分の明確化」など多岐に渡り、果敢に実施されました。
朝秀の政策は『黄金の箍(クガニヌタガ)』(箍=桶や樽を締める金具のこと)を呼ばれ、琉球の人々の誇りを喚起し、生活にゆとりを生み出したと言われています。