島津氏に対し抗戦を貫いた不屈の政治家、謝名親方
謝名親方は一六〇九年に薩摩藩の島津氏が琉球に侵攻したときの三司官(宰相)で、断固抵抗の姿勢を貫いた人物である。
久米村の名門 鄭氏に生まれ、華人の子孫として初の三司官となった。
独立国である琉球に度々服従を迫る島津氏と、王家の派閥争いという難題を抱えた時の国王・尚寧がその知恵と決断力を頼みとしたのである。
彼は従来の明との関係を重んじ、戦も辞さぬ覚悟で 島津氏の圧力をはね付けた。
やがていよいよ琉球に対し三千人の兵団が差し向けられるも、謝名親方率いる王府軍は那覇港でこれを迎え撃ち一度は撃退に成功する。
しかし 歴戦の島津兵に 首里城は包囲され 尚寧王はついに降伏せざるを得なかった。
謝名親方は戦の責任者として 王とともに薩摩に連行されたが、監禁の身にあっても彼は明に救済を求める密書(反間の書)を送り 反撃の機会を伺い続けた。
戦から二年後 王と重臣達は島津氏に忠誠を誓う起請文への署名を条件に帰国を許されたが、謝名親方ひとりが連判を拒み斬首の刑に処せられた。
彼は外圧に最期まで屈することなく琉球の主権に命をささげた政治家であった。