八重山を守るために 琉球王府と戦った英雄、オヤケアカハチ
十五世紀末、琉球王国の尚真王はそれまで緩やかな従属関係にあった八重山を完全にその支配下に治めようとします。この動きに対し、八重山の人々を率いて最期まで抵抗したのが石垣島の有力者オヤケアカハチでした。
この「王府軍」対「八重山軍」の戦いは「オヤケアカハチの乱」と呼ばれています。 「勝てば官軍、負ければ賊軍」と言いますが、まさにアカハチはその後長年に渡って王府に刃向かった「逆賊」として語られます。
しかし後世になって、アカハチは八重山を守るため戦った英雄として扱う向きが生まれした。十五世紀の八重山は群雄割拠であり、英雄たちがその暮らしと誇りを守るために命をかけて戦わなければならない時代でした。
アカハチが今も愛されるのはわたしたちが彼に「大事なもののために戦う、気高く偉大な精神」を見ているからかも知れません。
□オヤケアカハチ、その名の真相
愛称として、多くの方から呼び親しまれるオヤケアカハチ。
しかし残された史料から、実際の名は未だ分かっておりません。
根強く残る説として、1701年、蔡温の父・蔡鐸(さいたく)が、王府編纂の歴史書「中山世譜」において、 オヤケアカハチの名を、堀川原 赤蜂(ホンガワラアカハチ)と表記し扱っております。
一方、1705年編纂の八重山島由来記では、一人ではなく二人だったとする二人説が浮上。
さらに1745年には、「球陽」で、遠弥計赤蜂保武川(オヤケアカハチホンガワラ)と記述した一人説等、 多岐に渡り多くの記録が挙げられていますが、依然として謎に包まれたまま。
今後のさらなる研究が待たれるところです。
現在、石垣市にあるオヤケアカハチ之碑の碑文の冒頭には次のように刻まれています。
「オヤケアカハチ一名ホンガワラアカハチ」(以下省略)。