琉球統一後の治世の基盤を作った国相、懐機
中国・明から派遣された懐機は、第一尚氏王統の始祖・尚 思紹(しょう ししょう)から、五代国王・尚金福(しょう きんぷく)に至り、王に仕えた人物。当時から明でも特に高い身分と知識の持ち主であった懐機は、1418年、思紹の使者として明に渡り、皇帝から「尚」の姓を受け、尚氏王朝の基盤作りに貢献した。 後に、二代国王・尚巴志王の代より、国王を補佐する「国相(こくしょう)」に就き、三山統一や進貢貿易に尽力するほか、国を挙げて行われる大工事の指揮も務め、尚巴志の右腕となって活躍した。 尚巴志の息子・尚金福王の時代(1451年)には、那覇(※浮島)と陸を結ぶ、全長約1キロの水上道路「長虹堤(ちょうこうてい)」を創建。
(※当時、那覇は首里とは海で隔てられた「浮島」と呼ばれていた。)政治の中心・首里と、経済の中心・那覇は互いに連携し独自の発展を遂げ、王国時代を通じその要として機能した。 こうした国際的な視点から琉球の先を見据え、尚巴志を始め、王と共に国家を築き上げた懐機は、第一尚氏王統の名国相と言える。